ひとことだけ。
下記記事にアクセスが集中していました。
昨夜がお守りを貼るラストチャンスだったのですが、
落とした人が多かったのかな?
ブックオフに注文していた段ボールが届いたので、朝から古本類の箱詰め。
やり始めると止まらなくて、朝食も取らず、黙々作業。
詰め終わったら、すっきり!
不要なモノを手放していく作業は、こまめに行ったほうが良い。
一か月前に執着していたモノや事象に、今はまったく関心がない――最近、そういうことが増えてきた。
よく「断捨離という概念が嫌いだ。モノは大事にすべきだ」と訴える人がいるが、多分「モノを粗末にして安易に捨てる」という解釈をしているのではないだろうか。
そうではなく「不要なモノを捨てたり手放したり、あらかじめ拒否することで、自分を大事にする」のが断捨離だと思う。
昔は大好きだった哺乳瓶ミルクやリカちゃん人形が、今は不要(というか記憶にものぼらない)というのは、別におかしなことではない。対象を粗末にしているわけでもないし、その市場価値が下がったわけでもない。
ただ「今の自分」に合わなくなったから手放すというだけ。
人間関係や組織関係でも同じこと。相手や組織が悪いとか、こちらに非があるとか、そういう話ではない。ただ「合わなくなったら離れたほうがいい」というだけだ。
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「読もうと思ってそのままの本」「一読したけれど、二度と読み返さない本」「昔は好きだったが、開かなくなっている本」…どれも手放すことに決めた。
モノとの向き合い方は、人間関係に通じるところがある。
逢おうといいつつそのままの人、二度と逢いたくない人、以前は仲良しだったが疎遠になり、今も交際を再開したいと思えない人。
何を手放し、何を残すか。そして空いた場所を何で満たすのか。
そんなことを考える立春大吉。
断捨離の神様「縁切榎」(2/4撮影)。
境内に絵馬をかけるスペースがなくなり、金網にしばる人多数。
ちなみに境内の絵馬スペースはこんな感じ。
お焚き上げ処理をする方に感謝を込めて、
立春大吉参りをさせていただきました。
少し前から「運気が切り替わります」「準備をしましょう」「立春前までの過ごし方が、これからの生き方を大きく変えます」と目にするようになった。
もちろん、節目は大事。だが、あまり外野の声に左右されないほうが良い。
例えば、年末に「年賀状の準備はお済みですか」「今年の汚れ、今年のうちに」と煽られると、自分のペースが崩される気がして鬱陶しい、と感じる人も少なくない。自分の中に節を持ち、それをどう活用するかは自分次第であり、外の喧噪は「役に立つところだけ」切り取っておけばいいのである。
👹 👹 👹
節分。20年ほど前に鶴岡八幡宮に行ったことを思い出す。福豆の袋が拝殿から投げられ、参拝者たちが争うように奪っていく。私は運動神経がないのと、その光景についていけなくて、途中で豆を拾うのを諦めた。友人が地面に落ちる前の豆をいくつかキャッチしてくれて、それをもらったのだが…。
他人を押しのけて、ひとつでも多く福豆を我が物にせんと争う群衆。
踏みしだかれ、泥に塗れた福豆の残骸。
地獄絵(餓鬼道)に迷い込んだような気がした。却って福が遠のく…と感じたので、以来「節分」の神社仏閣には行かないと決めた。
節分の日は、家の中を丁寧に掃除し、感謝しつつ福豆をいただくのがいい。
節分イブ(2/2)にいくつか神社・仏閣めぐりをしてきたので、備忘録として写真を貼っておこう。
紅梅も咲き始めている。
今年はスサノオさんにご縁がある。なんとなく訪れると、スサノオさんが祀られていることが多い。今回は意識してスサノオさんにご挨拶に伺った。
二礼四拍一礼でご挨拶。
うさちゃんも隠れている。
(以上4社は赤坂・六本木エリアなので徒歩でまわれる)
こちらもスサノオさんが祀られている。
乙女稲荷社
蛍雪天神(学問の神様)
撫でるといいことがある(らしい)大ムカデ。神楽坂・善國寺の姫小判守にも、ムカデが刻印されているし、この地域はそういう系統が多いのだろうか…。
赤城出世稲荷、八耳神社、葵神社
奥まった場所に鎮座している。赤城神社は数回参拝しているが、今まで見落としていたので、丁寧にお参り。
節分当日が非常に寒くなったので、2/2にお参りして良かった…と安堵。
ピンクのカーネーションを買って飾ってみた。
ちなみに松枝と白菊は12/30頃に購入したもの。
気温が低いため、お花がかなり長持ちしている。
まだまだ厳しい寒波を、楽しくとらえてみよう。