面白がって ご機嫌に生きる

快適なモノや場所を選び、いつも機嫌よく過ごしていたら、運と勘が強くなりました。どこまで楽しんで暮らせるか、日々実践中です。

人のお世話にならない生き方

現在、多くの神社でこの張り紙が掲示されている。

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人のお世話にならぬよう

人のお世話をするよう

そしてむくいを求めぬよう 後藤新平

コロナ禍に合わせてのチョイスだろうか?

一見、自立してカッコいい印象をおぼえるが、掘り下げるとかなり無理のある話だ。大体、人の世話にならずに生きられる人などいるのだろうか。生まれた時から逝くときまで、常に誰かの世話になるのがこの世の倣い。人の世話にならない――つまり森羅万象すべてのことに長じ、誰の手も借りずに何もかも処理できる人に、私は一度も出逢ったことはない。

どんなに優れた人でも、できることは限られている。だから、違う者同士ができることで協力し合うのが自然ではないだろうか。また「かつてできたこと」が環境の変化や加齢等で「できないこと」に変わることもある。その時に、甘えることができない環境はかなりしんどいと思う。

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この言葉が神社に貼られていたのも、非常に不思議だ。

例えば有名な天岩戸物語は、最高神天照大神が「多くの神々に世話を焼かれて」岩戸から引きずり出される話である。また岩戸開きの神様たちも、ミッション達成のためにお互いに協力・補完しあって――すべてひとりで抱え込まず――最高神復活という「むくい」を得るために、奮闘する。

つまり、お世話にならぬのも、世話だけ焼くが報いは不要、というのも違う(と古事記には書かれていると解釈した)。というか、あり得ない。そもそも「無償の愛」という存在が疑わしい。マザー・テレサは貧しい人に寄り添うことで神の愛を感じ、我が子を哺育する親は、小さい命から多くのものをもらう。何かしらの充足・知足が、あらゆるところに存在するのだ。

依存ばかりは困るが、岩戸籠もりのように「世話もしないし、世話にもならないから、むくいを求めないで」も困りものだ。

相互に世話をかけあい、望むものに近づいて行こうとするのが、本当の姿だと古事記は教えてくれている。

そう思うのだが、なぜこれが「生命の言葉」として紹介されているのか、選択者に尋ねてみたい気がした。

 

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