スローライフでご機嫌に暮らす。

思いつくまま、気の向くままに、よしなしごとを綴っています。

いつか来る死――死と手をつなげば、今を生きることにつながる。

72歳の糸井重里が、400人以上を看取ってきた82歳の訪問診療医と「死」を入り口に語り尽くすエッセイ『いつか来る死』。

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死とちゃんと手をつなげたら、今を生きることにつながる。

「はじめに」を抜粋しながら、思ったことをつらつら書いてみよう。

死を頭の片隅に持ち歩く

ここ数年は、お守り札を持ち歩くように、「死」についての考えを頭の片隅に持ち歩いています。それは、ちっとも嫌なことじゃないんです。自分の体の衰えを感じたとき、身近な誰かが亡くなったとき。そういうときは、どっぷりと死のことを考えます。

両親を見送り、更年期を迎え、死について頻繁に考えるようになった。別に生き急ごうと思っているわけでも、ネガティブな感覚に身を浸しているわけでもない。むしろ、できないことが増えていくことが楽しいのだ。記憶が鈍り、目のピントが合いづらくなり、代謝が落ち、身体は老化の一途を辿るが、いつも面白く観察している。もし年を重ねるたびに成長し、ピークで逝くとしたら悲しすぎる。花もつぼみから開花し、そして萎れて静かに散るのだ。自然には無理も無駄もない。

日々考えは揺れ動く。

一方、「自分のお通夜はパーッと楽しくしたいな」と空想する日もあれば、赤ん坊と接して限りなく死が遠くに思えるときもある。いつでも真正面から向き合っているわけではありません。揺れ動いていて、考えが変わることもある。それでいいんだと思います。

私もいつも逝くことを念じているわけではない。大抵の場合は放念している。しかし生きることに没頭しているときも、逝く日を思うときも、どちらも温かい気持ちだ。そういう受容ができるようになるから、年を取るのは楽しい。

 死への意識が生への強い解放につながる

死について考えることは、「生きる」について考えることです。死を意識すると、生きることがより解放される。年々、その効果を感じるよ うになりました。人生って、みつ豆さくらんぼを最後のお楽しみに取っておいたら誰かに食べられちゃった、みたいなことだらけです。後で、後で、と考えていると、せっかくいただいた命を、存分に使えないままにしてしまう。

逝く時をよく考えると、むしろ生がより自由になる感覚をおぼえる。さくらんぼの喩はそのとおりで、何度食べ逃したことかと臍を噛むほどだ。昔は好物は後での楽しみにしていたが、今はすぐに食べることにしている(だから太る)。しかし「今」を逃すほどの愚行はない、そう思って一期一会を大事にしているのだ。

「いつかやればいい」と時間を無駄にしない。

「上からの命令」や「社会の仕組み」といった、やりたいことを邪魔する要因から解き放たれるためには、「死」というカードを持っておくと強い。それがないと、「いつかやればいいや」でずるずる年月が経ってしまう。日頃から死について考えておくことが必要なんです。

命は有限であり、この生は一度きり。そう認じてから時間を粗末にできなくなった。同調圧力を唯々諾々と受け入れ、従容と過ごすのは40代で終わりにしようと決めたのだ。地位、名声、賞賛、世間体など「他人軸」に合わせるよりも、自分のやりたいことをひとつずつ叶えていこうと思った。基本的な社会の仕組みについては、適宜敬意をもって従うが、過剰な同調圧力をかけられたり、コンフォートゾーンを侵食される場合は、そこから速やかに離脱することにしている。

www.1101.com

 本日のまとめ

明日から図書館が開館する。この本の続きを読みたいから、さっそく借りてこよう。

そして明日午前4時過ぎには牡牛座新月。お金や物質的豊かさに対する願い、現実生活への感謝が適しているらしい。死生観と乖離ある話になっているようだが――否、生きているうちは自分を満たす努力は必要だ。

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