昨日、電車に揺られているときに、7歳くらいの少女の声が耳に届いた。
「だって、つまんない。
いいことをしたのに、何もいいことがない」
善い行いには善い見返りが、悪しき行為にはその報いがある。そう考える日本人は多分たくさんいるのだろう。知人が「私は財布を拾って届けたこともあるのに、私がなくしたとき誰も届けてくれない」とぼやいていたのを思い出した。
愛したければ愛しなさい。親切にすれば親切にされる。悪口を言うから、人から悪く言われる。努力すれば報われる。優しい人には優しい人が集まってくる。
よく耳にするのだが、果たしてそうだろうか?
愛が強すぎるストーカーを愛し返す人はあまりいないし、悪口をまったくいわない人でも、その人を叩く輩はたくさんいる。
暴力に対し無抵抗であった場合、相手がおとなしくなるかといえばむしろ逆で、ますます増長する。
お金を貸した相手が、自分に貸してくれることはまずない。400万円を貸したあの男性に対し、先方は報恩どころか搾取の方向に舵を切ったではないか。
優し過ぎる人は、むしろその優しさにつけこまれて、善き出来事よりも、酷薄な体験をするように思う。
愛すれば愛されるのではなく、愛すれば、ますます愛することになる。
親切が返ってくるのではなく、ますます親切にする事態に発展する。
悪口を言うと、一層悪口を言いたくなる場面に遭遇する。
努力すれば、更なる努力を要求される。
人に優しくすれば、なお優しさを差し出すように要求される。
「自分が出したものが返ってくる」の本当の意味は、多分「習慣が繰り返され、強められ、連鎖し、それが生き方そのものになる」ということだろう。だから、自分にどんな癖付けをしているのか、何を反復したいのかをよく見定めて、常におかしな事象を呼び寄せないよう、注意する必要がある。
「鶴の恩返し」「傘地蔵」など、報恩の昔話は多い。
畢竟”実生活では起こりえないが、起きてほしいこと”が情操教育として語り継がれているのだろう。これがありふれた出来事なら、そもそも人々は興味を示さない。
件(くだん)の少女が自分の悲運を嘆じた後に、傍らの母親が呆れたように「小学生になったのに何言ってんの。そんなの当然でしょ」とつぶやき、こう続けた。
「いいことは、いいことだからするの」