面白がって ご機嫌に生きる

快適なモノや場所を選び、いつも機嫌よく過ごしていたら、運と勘が強くなりました。どこまで楽しんで暮らせるか、日々実践中です。

常識と訣別すれば自由が手に入る

これはセミリタイアの心得にも通じるなと思った。

<常識っていうやつと おさらばしたときに 自由という名の切符が手にはいる>

「ハッピーじゃないか」(作詞・阿久悠、作曲・小林亜星

発売50年を迎えた、世界初のカップ麺「カップヌードル」のCM曲。

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もちろん社会生活を送る上で必要最小限な決まりは守るが、「庇を貸して母屋を取られる」ような、常識を固守するあまりに自身を損傷するようなことは絶対避けようと思う。

 

 

私の思考はひどく単純明快だ。多くの人が尊重する考えであっても、それに自分が違和感を覚えたときは、こう自問する。

本当に、そう思うの?

そう思わされているだけじゃない?

世間には、たくさんの「常識」(もしくは呪い)が地雷のように埋め込まれている。うっかり被弾しないように、慎重に考えて距離をはかるために、この自問を大切な習慣としているのだ。

 

呪いの数々を思いつくまま列挙すると――。

仕事は定年まで続けるべき。体調不良は自己管理の甘さだから、這ってでも仕事をすべき。女性も男性と同じように働くべきだ。子が生まれなくなったら国は亡ぶ。コロナは憎むべき敵だ。国全体の活気が失せたときに、楽しむ時間を持つのは思いやりがない行為だ。みんなが楽しそうなときに、悲しそうな顔をしてはだめ。人脈は多ければ多いほど良い。お金はあればあるほど良い。認知症は不幸だ。誕生は喜びで、逝くことは悲しみだ。生きる意味を見つけなければいけない。誰もが人の役に立つべきである。

 

たいてい、常識は「同調圧力」の鎧をまとって攻撃してくる。だから私も「相手のペースに迂闊に乗って”そう思わされないよう”気をつけよう」と防御するのだ。

 

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冒頭「ハッピーじゃないか」の歌詞は

<古ぼけた頭には 曇りが来てるから 不自由という名の メガネに困ってる>

と続く。

 

1971年の歌詞と思えないほど、現代の感覚と乖離がない。

曇り過ぎた脳の対処はともかく、「不自由メガネ」は訓練次第で割と外しやすいものとなる。

 

 

だから私は、常に自分に問いかけ続けている。

本当にそう思うの?そう思い込まされているだけじゃないの? と。

 

 

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今日はコスモスを見に行く予定でしたが、台風一過でなぎ倒されているらしく…中止しました。代わりに、家で脳トレを兼ねて、あれこれ駄文を書き散らしています。