面白がって ご機嫌に生きる

快適なモノや場所を選び、いつも機嫌よく過ごしていたら、運と勘が強くなりました。どこまで楽しんで暮らせるか、日々実践中です。

責任の所在を考える

私が小学生高学年頃の話だ。家族で焼き肉を食べに行った。ロビーに籠に入ったオウムがいたのを、よその男の子(5~6歳くらい)が指を入れてからかおうとした。それをうるさがったオウムが男の子の指をつつき、彼は悲鳴を上げた。

その瞬間、父が放った言葉が鮮烈だった。「ゆめの!だめじゃないか!ちゃんと見ていなきゃ!」弟ではない。縁もゆかりもない、たまたまロビーで居合わせただけのよその坊やである。なぜ私がそこまで責任を持たなければいけないのか。

ちょうど反抗期に入った頃でもあり、私は非常に不機嫌になった。すぐその件を母に伝え、同じく憤った母は、帰宅後に父と大喧嘩を始めた。しかしこれは完全に父が悪い。

見てください、僕の家は他人様の家のことまで目配りするようにきちんと教育しているんですよ、すごいでしょ?と完全にずれた見栄を張っているのだから。

私が男の子の親なら、感心するどころか「変な親だな、うちの子のせいでお嬢さんが叱られて気の毒だ」と同情し、恐縮するだろう。

父は根は善良であったが、こういうズレたところが過分に備わっていたため、家族は本当に疲弊したものだ。

 

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責任をおかしな風になすりつけるのは父くらいだと幼い時分は思っていたが、どうやら世間一般がそういう風潮に染まっているらしい。

電車内での高校生への暴行事件。誰も止めなかったという論調の記事を読んだ。いつも思うのだが、なぜ犯人ではなく周囲を責めるのだろう。東大で凶行に及んだ少年事件でも、学校が謝罪した。彼よりももっと不遇でも、くさることなく他者に迷惑をかけることなく、道を誤らず、コツコツ自分の課題に取り組む若者のほうが断然多いのだから、教育や環境よりも個人の資質によるところが多いのだと思う。しかし、何故かマスコミは当事者でなく周囲を責める。

電車内での暴行を誰も止めないのはひどい、いつから日本はそんな国になったのかと嘆いている人は、関与して再起不能なくらいの重傷を負っても、あるいは命を落とす危険性があっても「見ず知らずの他者を助ける責任が国民にはある」と主張し、そして自分もそれを全うするのだろうか。常に疑問がつきまとう。

煎じ詰めれば、人は誰でも自分が可愛いものだし、まず自分と家族を優先するものだ。そして生物は「まず生き延びる」ことを最優先にする。そこを隠蔽して「道義が、道徳が、人の道が」ときれいごとを説くのは違和感しか覚えない。

 

私自身、過去にいろいろな人のお世話になり、多くの局面で救ってもらった。しかしそれを当然だと思ってはいない。他者のために貴重な時間と労力を割いてもらって、本当にありがたいことだと思っている。

もし自分が虎の尾を踏んだり、藪の蛇をつついたために、その禽獣に殺されかけたとしよう。周囲が手をこまねいていても、決して恨まない。それは身から出た錆だと思うし、助けられないのは当然のことだ。逆に私を助けようとした誰かが重傷を負ったり、命を落とすほうがたまらない気がする。そのくらいなら自分が逝った方がいい。

だから「(自分がどんな犠牲を払おうとも)他者を救う世の中であれ」というマスコミのメッセージはいつも釈然としない。

 

自分のお尻は自分で拭こう。

”拭いてもらって当然、他者のお尻を拭かない貴方は不人情”

そんな印象操作には、決して乗らない。

 

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