面白がって ご機嫌に生きる

快適なモノや場所を選び、いつも機嫌よく過ごしていたら、運と勘が強くなりました。どこまで楽しんで暮らせるか、日々実践中です。

諸行無常「壇ノ浦」――アニメ「平家物語」より

昔は小説を好んで読みましたが、最近では殆ど手に取ることもなくなりました。その代わり、古典を繰り返し読み耽っています。源氏物語枕草子方丈記徒然草など。

古典には、今も深く魂に突き刺さるものがあります。だから1000年も読み継がれてきたのでしょう。

先月、最終回を迎えたアニメ「平家物語」。この最終回がとても心揺さぶられるもので、この回だけ何十回も繰り返し再生し、ほぼ画面構成と台詞を暗記してしまったほど。

今回、その感想を少しだけ綴ってみようと思います。

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ただの人たちの物語

「驕る平家は久しからず」。隆盛を誇る者、調子に乗っていた者は危ない、いつか転落する、痛い目に遭う…という他者の成功を嫉むような解釈が多いように思われますが、この作品では「登場人物すべて特別な人でなく、ただの人」として書かれています。

後白河法皇を演じた千葉繁さんが「法皇だけど、ただの人なんだよ」とおっしゃっていましたが、理解不能な人はまったくおりません。驕らずとも、いかに謙虚で徳があろうとも、生きとし生けるものすべて「必滅」が決まっています。

平氏も源氏も平民も、その命の流れの中で懸命に生き、時期を迎えて逝き、残された者たちの語り・祈りの中で生き続けているのです。

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アニメでは、原作にいないオッドアイの少女びわ(琵琶を奏でる女の子。先を見通せる目を持つ。不思議と最後まで年を取らない)が出てきます。彼女は平家の歴史に干渉することなく、ただその場にいて物語を語り継ぐ役割を担っています。

 

悲惨さを強調しない演出

壇ノ浦編は、他の作品で怨恨・怨念・無念を抱えた怨霊として描かれることが多いのですが、本作品ではほぼ従容として運命を受け入れているように描かれ、悲哀や悲惨さを前面に打ち出していません。間違っても盲目の法師の耳を引き千切るような、怨嗟を感じる人物はおりません。

また弓で射られた人も血を流さないとか、波間に散った遺骸の表情が眠るようだとか――とにかくどぎつい表現を避けています。

 

あと落涙の場面が多い割に、最終話での泣き顔のシーンはワンカットだけ。f:id:yumenoko:20220403081536j:plain

入水する直前の安徳天皇。「極楽浄土へまいりましょう」と、祖母の二位殿に手を引かれ、東の伊勢神宮、西の西方浄土へ合掌する姿を見て、傍らの女房がいたわしさのあまり涙をこぼします。しかし二位殿と帝の落涙は描かれません。

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「波の下にも都の候ふぞ」と囁いた二位殿は、安徳天皇とともに海中に身をおどらせます。

この後、船上の女性たちは次々と波間に身を沈め、最後に徳子(安徳天皇の母)も身を投げるのですが、救い出されてしまいます。

「そなたはまだじゃ。徳子は皆のためにこの先を生きていく」と生きる気力を失った徳子の腕をつかんで語り掛けるびわ

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びわの「(亡くなった)帝が幼き手を合わせておるぞ」の言葉に、こらえきれず目を押さえる男。涙は描かれません。

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助け出された後、びわにすがりついて号泣する徳子。声と後ろ姿だけで、やはり泣き顔は見せません。この水面を大きく取った画面構成もすばらしいですね。描かれていませんが、この深い静かな海の底にたくさんの平家一門が眠っており、船上と船下とで世界が別れたように感じられます。

見るべきものはすべて見つ

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平知盛が「見るべきものはすべて見た」と瞳を閉じ、その後で身体に錨をまきつけ、波間に身をおどらせます。

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それと同時に、びわオッドアイが薄青に変わり、景色がぼやけていきます。この薄青は、びわの盲目の母と同じ色。おそらく、びわも「見るべきものをすべて見つ」状況になり、先を読む眼力も(もしかすると視力そのものも)なくしたのではないでしょうか。

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👆安徳天皇入水直前のびわ。手をのばしかけ、運命を変えられないと気づいて手を引っ込める場面。このとき、瞳の色は左右違います。

 

知盛にしろ、びわにしろ、自分の役割を終えた瞬間、ひどく静謐な表情を浮かべています。失ったものに固執するでもなく、泣きじゃくって自分や他者を憐れむでもなく、呪詛を喚くでもなく、ただ従容と今の場所を離れていくのです。

 

音楽とカット割り

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この作品の音楽のセンスがまた抜群です。源平の海上戦で、突如大量のイルカが現れ「イルカが流れてきた方が負ける」と陰陽師が占うシーンがあります。

イルカがくるくると円をかいて泳ぐ様子は、ロシアンルーレットのようです。

 

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平氏方にイルカが一斉に泳ぎ出すシーン。ここでかかる曲がすばらしくて、毎日このシーンだけ繰り返すくらい気に入っています。

 

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現代アニメでの戦闘シーンは、概ね「実写では難しい」カット割りをしますね。

戦う二人にグッと寄って、一気にロングショットでカメラを引き、縦横無尽に対象の周りをノーカットで撮影するような(例:『鬼滅の刃』の煉獄・猗窩座戦など)。

しかし本作品はむしろ実写的なコマ割りをしています。この海洋戦のカットは「レッド・クリフ」や「パイレーツ・オブ・カリビアン」に近い。実写のスペクタクル映画に近い雰囲気です、またそこに日本的な余白の美も加わります。人物は静止しているのに旗だけが踊っているとか、ロングショットでなく、適度に画面を切り変えていくとか、比較的静かで懐かしい構成になっています。

ともすれば陰惨になりそうなこのシーンが、穏やかに感じられますね。

 

オープニング「光るとき」

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あの花が咲いたのは そこに種が落ちたからで

いつかまた枯れた後で 種になって続いてく

荒野をかけるこの両足で

Going Going それだけなんだ

明日へ旅立つ準備はいいかい

そこで戸惑う、でも運命が Calling Calling

呼んでいる

ならば全てを生きてやれ

何回だって言うよ 世界は美しいよ

君がそれを諦めないからだよ

最終回のストーリーは 初めから決まっていたとしても

今だけはここにあるよ 君のまま光ってゆけよ

この「光るとき」もすばらしい名曲です。

すべての生きとし生けるものは必ず滅する。それは始めから決まっていても、「今」だけはここにある。逆に言えば「今」しか生きられない。大変な世の中であっても、美しさを見出すことを諦めず、自分のままに輝いていけ…という歌詞は、平家物語の世界観ともぴったり重なり、心にしみます。

 

諸行無常は不幸ではない

平家物語」は驕り・栄える人を嘲笑うものでもなく、これ見よがしな悲惨体験でもなく、年月を経ても普遍で不変で不滅のテーマが描かれています。

 

製作者さんたちの温かい目線が、ラストシーンで披露されます。

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この世を旅立った平氏一門が集結し、皆が笑い合って楽しそうに過ごしている場面。

二位殿が入水直前に「波の下にも都はありますよ」とつぶやきましたが、周囲を珊瑚が取り巻いているので、おそらく竜宮城のように美しい場所で、みんなが幸せに暮らしているのでしょう。

生きることはすばらしく執着すべきもの、という視点でもなく、死は忌むべきで恐れるもの、という観点でもなく、どちらかを賛美するわけでも、善悪のジャッジもありません。

 

このあたりの描写は、壇ノ浦後の「大原御幸」に描かれています。

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最後に

長くなり過ぎたので、一度ここでしめます。大原御幸とラストシーンについて書きたいことはたくさんあるのですが、やはり好きすぎる対象をまとめるのは難しいものですね。

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壇ノ浦の話に感激し過ぎて、安徳天皇を祀った山口県下関市赤間神宮に、いつか行ってみたいという夢を持ちました。平家物語をもう一度学んで、絶対訪れたい。

 

余談ですが、知盛の「見るべきものを見つ」は昔から大好きな台詞です。早期退職を決める前「この会社で見るべきものはすべて見たし、やれることはすべてやった。私が組織から吸収できることも、私がこれ以上この組織に貢献できることもない」と思ったことが、当時の日記に綴ってあります。

知盛の命の限りを懸命に生き、時が来たら肉体、地位、財産等をすべて潔く手放し、一切の執着なく無常を受け入れて旅立つ姿勢が、本当に大好きなのです。

 

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