面白がって ご機嫌に生きる

快適なモノや場所を選び、いつも機嫌よく過ごしていたら、運と勘が強くなりました。どこまで楽しんで暮らせるか、日々実践中です。

被害者意識・自己憐憫の時代は終わっている――アニメ『平家物語』(大原御幸)より

帝の妃であったそなたが、このように侘しい住まいに――さぞ不自由な思いをしているのではないか?

そのように思うたこともございました。ですが、来世の往生のためにはこれも喜ばしいことなのだと、今はそう思うております。

 

平家物語』灌頂巻では、後白河法皇が息子(亡き高倉天皇)の妃であり、敵対した平清盛の娘である、落飾後の建礼門院徳子を訪ねる場面が描かれている。

灌頂巻での徳子は「かつて栄耀栄華を極めた自分が、このような尼姿に…消え入りたいほど恥ずかしい」とさめざめと泣く。後白河法皇も彼女の不遇に同調し落涙。ふたりは恩讐を超え往時をしのんで泣き明かす。

 

冒頭は、アニメ『平家物語』の後白河法皇と徳子の最初の会話だ。灌頂巻と違い、ここで一切涙は見せない。そして、徳子はかつての舅のいたわりに対し、被害者意識も自己憐憫も自己卑下も他人軸目線も、表明しない。相手の意向を一度受け止めるが、そこから不幸の開陳を始めることなく、逆に反駁し相手の感情を支配するのでもない。ただ「今できること、小さな喜び」に目を向けている…と静謐な口調で語る。

(穏やかな表情の徳子)

 

(痛ましげな表情の後白河法皇

 

徳子は、後白河法皇の「呪い」を受け取ることはなかった。呪いは「悪意により、人を不幸に陥れようとする行為」と定義されることが多いが、広義では「受け取った側が、生きづらくなる言動」も含まれるように思う。畢竟、愛や親切や善意からの言葉も、呪いとなる。

「可哀そうに」「人並みの幸せを歩んでほしい」「あなたに期待している」こういう言葉が呪いとなり、生きづらくなる場合もある。

しかし、アニメの徳子は相手のいたわりの気持ちを斟酌しつつ、自身の負の感情を肥大させることはなく、ただ静かに往時を反芻する。悲しみを超えたわけではないが、呪いをかけ合って互いに悲劇を増幅する真似はしない。

この解釈は見事としか言いようがない。令和版の『平家物語』の見事さ。

 

徳子が後白河法皇に提供したもの。侘しい暮らしの中でも、摘んだばかりの花を飾り、もてなすゆかしさ。「これはうまい」と感嘆する法皇

また心許せない者同士であれば、食の提供も嚥下も到底できない。一瞬のもてなし場面だが、ふたりの優しい距離感が表現されている。

 

徳子は「私にもまだ忘れられない思いがございます」と悲しみが癒えていないことを語るが、そこで悲劇に浸ったり、憐憫を向けることはしない。ただ、自分ができること「祈り」を続けている…と。

その表情はやわらかく穏やかだ。

 

他罰的、被害者意識、自己憐憫、自己卑下。他人からどう見られるかに心砕く時代は、もう終焉を迎えているのだろう。

 

すがすがしさを感じる大原御幸を、今日も見返している。

 

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