東洋経済オンラインの稲垣えみ子さんの記事。
あるブロガーさんが「面白い記事」と紹介していたので、読んでみました。
<要旨>
退社してから「買わない生活」にシフトし、幸せを感じるようになった。そのうち使うあてのないお金が貯まっていくことに気づく。それをどう生かすかを逡巡した。寄付も考えたが、責任をもつまでの覚悟が足りず、結局「稼ぐのも大変だが使うのも難しい」という結論に至った。
記事の4ページ目までは同意できたのですが、寄付のあたりから「?」となりました。
ポンと一回お金を出して終わりというのでは無責任で、もし寄付をするなら地道に長い間継続してお金を払い続け、なおかつ自分自身もその組織にちゃんとコミットして運営に関わるくらいの覚悟がなきゃダメなんじゃないか?
で、私にそこまでの覚悟はあるのかね?
なぜそこで悩むのでしょう…。支出に責任感をもちたいという考えも悪くありませんが、軽やかにお金をまわすことで、助かる人たちもたくさんいると思うんですよ。金額の多寡にかかわらず、お金の出し入れすべてに責任を感じ始めたら「商店街の店がつぶれたのは、買い物をしなかった私のせい」など重苦しくなりますもん。
そこまで考えると、私は肩を落とさざるをえなかった。現実には私、他にやりたいことがたくさんあるので残念ながら新たなミッションにそこまでの時間もエネルギーも割けないのである。となると、まとまった寄付というのも現実的な選択肢とは言えないと思わざるをえなかった。
例えば、尾田栄一郎さんはルフィ名義で熊本県に8億円の寄付をしていますが「責任を持たねば」「金の使い道を細かく見届ける義務がある」「でも忙しい」など悩みません。「助けよう」「お金を出そう」「後は現場を信頼して任せた」という感じの、ルフィのような粋で潔い行動を取られています。
先日、尾田さんがテレビに出ていらしたときに、印象深い話をされていました。
「僕、お金に興味がなくて、自分がいくら持っているかわからないんですよ。(中略)バカみたいなことを描いてお金をもらっているんだから、バカみたいなことに使うのがいいのかなって思っています」
※ここでいう「バカみたいなこと」は他人様の理解を得られる・得られないにかかわらず、「自分の好きなこと」に使う意味だと解釈しました。
お金の神様に愛されるわけです。
お金に執着しない。循環させる。自分と周りを明るくすることを第一義にする。考えても仕方ないことで悩まない。判断が早い。他者の共感や評価を気にしない。
稲垣さんの記事はネタなのかな…と思うのですが、ツッコミどころが多過ぎ。そもそも「お金が貯まり過ぎちゃった!どうしよう!」という、周囲から反感を得やすいテーマで書くのがチャレンジャーだし、かなり力量が問われる記事だと思うのですが…。私が今回抜き出した箇所を書かなかったら、もう少し説得力があったように思えます。寄付の箇所で「やる気なさそう」「できない言い訳を連ねている」と見えてしまうんですよね。
稲垣さんの記事を面白いと書いていたブロガーさんは、9桁の資産家。そういう方ならともかく…私のような一般庶民には理解が難しい記事でした。
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稲垣さんは自由業向きというより、組織人向きの方のように感じますね。寄付するにも「事業計画を読み込んで責任をもってあたるべし」、ひとり飲みにいくにも「酒場のコミュニティに受け入れられるにはどうすべきか。心得〇か条作成!」と常に組織に近づき、合わせようとするので。
自由業になれば、組織という甲冑を脱ぐことになる。抑圧が消え、軽やかで開放感を得たと喜ぶ人もいれば、守られていた感がなくなって不安を覚える人もいます。
稲垣さんの文を読むと、退職して数年を経てもなお、無意識に甲冑を探しているのかな…と感じます。