面白がって ご機嫌に生きる

30万アクセスまで、ぼちぼちと雑感を綴っていきます。その後は、開店休業の予定です。

天寿をまっとうする

2018年の10月12日は、子宮内膜症の手術日だった。手術を終えた後、病室の天井を見つめながら「病人はそれほどつらいものでもないな。このまま身罷ってもつらくないな。院内なら発見が早いから、腐敗する前に見つけてもらえるだろうし」と人生卒業のことに思いを馳せていた。この時、立ち合いで来ていた母が、1か月後に公道で転倒し、そこから一気に介護、看取りのコースになるなど、想像もしていなかった。

わずか数か月で「病人」「介護人」が逆転し、明瞭に悟った。

去り行く病人よりも、見送る者の方が比較にならないほど大変だ。残酷な世界に取り残される生者にのみ難行は課せられるのだ、と。

 

ドラマや小説などでは「生きているだけありがたい」「死んでいく人たちは可哀想」と死を悲劇として煽るが、天寿を全うするのは、別に不幸なことではない。死が不幸であれば、すべての人間に約束されているのは、不幸ということになる。

死は、ただこの世を卒業するだけ。

「入学おめでとう」「卒業おめでとう」

「入社おめでとう」「退職おつかれさま」

これら同様に、新しい場所へ移るだけのことなのだ。

学校や会社が通過点であるように、地球人生も魂の通過点に過ぎない。

生きるのは、ジェットコースターに乗るようなものだ。緩急やアップダウンのある道を、ひたすら振り落とされないようにしがみついていく。ここで「怖い、つらい、もういや」と乗物(肉体)から飛び出せば、身体(魂)はダメージを負う。終着点(天寿)で降りれば、苦しみは少ない。

逆に終着点で「降りたくない、まだ乗りたい!!」と片足を乗り物に突っ込んだまま踏ん張ると、股裂きになって苦しむことになる。無闇な延命は、肉体にも魂にもダメージを与えるような気がする。

 

与えられただけの命を、しっかり生きればよい。

最近はいろいろな執着が薄れてきた。今年逝っても20年後に逝っても後悔しないと思う。健康は望むが長寿は望まないので、ほどほどのところでお迎えにきてもらいたい。

あの世の使いがやってきたら「待ちくたびれた!」と背中に一発入れて、「さあ、逝きましょう」と次の場所に疾く移ろうと思っている。

 

手術から4年経った朝、軽く「生死」についてつぶやいてみた。

 

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